速報! 旭町1号踏切~いろいろ解体
2021年9月27日の真夜中から旭町1号踏切の撤去作業が始まりました。(現地からの報告による)
車線規制をかけながら、少しずつ架線と、踏切遮断ワイヤーを切断・撤去しました。
今日から架線柱の撤去を行うそうです。もう旭町1号踏切がなくなったと言っても過言ではありません。
寂しくなりますね。線路や踏切小屋の撤去はまだ先のようです。

旭町1号踏切は遮断棒(遮断かん)ではない、踏切小屋からの操作による電動巻上げワイヤーロープによって昇降を行う方式の遮断装置。一体どういう名称なのかよく分かりませんが。当時、この方式の遮断機がある踏切は、全国でもここだけ!と言われているほど珍しかったはず。日本の珍踏切を特集した本にも紹介されていた(昨年夏発刊)。

2014年4月20日 旭町1号踏切を往く45t電車牽引の貨物列車(第4便)

2016年6月2日 旭町1号踏切を往く22t電車の錆び取り運転
朝のラッシュ時に国道を遮断して、多くの通勤などのクルマを止めさせて、堂々と横断して貨物列車の風景が何とも言えないほど奇妙だった。朝方は眩しかったなあ。

2021年1月10日 もう廃止されて昇降することの無い旭町1号踏切の遮断装置
廃止から実に1年4ヶ月ほどして、ついにその装置が撤去された。
次回、大牟田遠征に行っても旭町1号踏切の痕跡がないかもしれません。
元から踏切なんて無かったよって、ここを毎日通る人や、市民の記憶から消える日もそう遠くないでしょう。
今回は速報まで。
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宮浦操車場出発!で思いついた

2015年9月26日 5年前に撮影
宮浦操車場を出発する第1便貨物列車(トリミング編集済)
の懐かし写真をを眺めていて、ふと思った。
このアングル(構図)で撮影した写真はたくさんある。反対側からや、後追いで撮影したこともいっぱいある。
そんなシーンを年代別・・・、いや年月別でまとめると面白そうかなと。写真の選定作業が大変だよ、それは。
何かしら注目・まとめられるテーマで、改めて過日の写真を発表できると面白いかなと考えています。
◆来月から10数回に分けて「大牟田専用貨物~○○特集」を始めます。
写真は過去12年分から、約100枚を選定し終えました。
選定自体はなかなか楽しかったけれど、整理は大変な選定作業でした。
選定作業中は、卒業アルバムを見返している気持ちになります。乞うご期待下さい。
※ただ、ずっと同じシリーズを10数回も書き続けるのは飽きが来るので、別記事も織り交ぜながら進めようかと。
得意分2大カテゴリー(三井化学専用鉄道、大牟田専貨)にこだわらず、別のも頑張りたいところです。
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東泉町1号踏切から望む風景~2015-9-26
今からちょうど5年前の2015年9月26日の撮影より
今回のは、珍しく車庫前の東泉町1号踏切から超望遠・限界までズームで撮影したものです。

第3便単機回送が仮屋川操車場に向けて出発ですが・・・
22t電車11号機はすでにねぐらから出てスタンバイOK状態です。
しかしですね、22t電車があそこに準備していると、駅事務所下から第4便貨物列車の到着シーンが上手く撮れません。
ジャマなんだよね~(笑)。
◆なので、今回はわざわざ東泉町1号踏切から真正面ドカン狙いで~という記憶はありませんが(笑)

第4便貨物列車が、宮浦操車場に入場
乗務員が下車準備しています

乗務員が素早く下車完了
乗務員はそのまま歩いて、最後尾位置まで向かいます。

宮浦操車場到着~停車しました
撮影記録を見る限り、600mmのバズーカ砲は使っていませんでした。
別の日に使ったこともある筈なんですが。あれってなかなか使う機会がなかった宝の持ち腐れがありましたね。
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2009年9月には大型連休SWがあった
2009年9月には、5月のゴールデンウィークに並ぶ、シルバーウィーク(SW)が存在した。
その後はなかなか連休がうまく重ならないのでSWみたいにはならないが、今から12年昔にはあったんだなあ。
◆私はその5日間はずっと大牟田で専用鉄道を撮りまくりました。
また多くの興味を持った鉄ちゃんは、千載一遇のチャンスと大型連休を利用して大牟田などに遠征し、私も何人か会いました。
その中の2人とは、宮浦操車場で初めてお目にかかり、以後も大牟田やそれ以外の場所でお世話になります。まさにSWが運んでくれた縁ですね。三井化学専用鉄道が無くなった現在は、お二人にお目にかかる機会はありませんが、今も元気にしているようです。
因みにそのお二人同士も宮浦で初めて会ったそうですから、すごいことですね。
◆写真は1日2枚ずつで紹介します

2009年9月19日
この日の最初は7時台の黄タキの工場入場・出場シーンから
徐々に日が短くなり、光線の角度も変わってくるので明るく映るところとそうでないところがはっきりします

この頃は、第1便の出発準備が7:30ごろだったのでかなり早く、また編成も長い方だったので結構後ろが長く感じる映える光景がありました。末期では考えられない光景でしたね。

2009年9月20日 駅事務所下の駐車場から撮影
第4便が宮浦操車場に到着したシーン。かっこいいね。

黄タキの出場シーン。職員さんの前方確認の指さしが決まってる~!
この日は朝から夕方までべったり撮影(昼間は昼寝していました)。例のお二方ともこの日に会ったはず。
最後の最後に黄タキの工場入出場が見られた記憶があります。

2009年9月21日 7:30ごろ
朝の出発準備を見た。編成完成まで時間がかかるだけ面白い。

第4便の宮浦操車場到着を東泉町2号踏切から撮影

2009年9月22日 曇り空
あまり天気が良くない日だった。
第1便の宮浦操車場の出発シーンを東泉町2号踏切より撮影。

浅牟田108号踏切での撮影も忘れません。
この踏切があった頃は、操車場とこの踏切を行ったり来たりと大忙しでしたね
ただ暴走車(笑)の抜け道で結構危なかったですよ。

2009年9月23日 第1便の5線路区間走行シーン
この大型連休は、宮浦操車場だけでなく、仮屋川操車場から5線路区間、旭町1号踏切、東泉町1号踏切など様々区間で撮影していますが、それは最近アップしたばかりなので、今回は宮浦操車場メインで。

銀タンコの出場シーン
さすがに最終日は疲れました(笑)
5日間連続で大牟田の鉄道撮影に集中できたのは良かったです。いろんな発見と出会いがあり、充実していました。
また、このSWのこれでもかって言うほどの撮影で私は引き返せないところまで進みましたね。よきかな、よきかな。
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現地から報告あり~架線・架線柱の撤去あり 後編
現地から報告あり~架線・架線柱の撤去ありの続きです。
22日現在、撤去工事がますます進んでいると連絡がありました。寂しくなりますね。

2009年9月13日撮影 随分と無茶な場所から狙ったものです

2009年9月22日撮影 この時は旭町1号踏切の遮断機が上がってすぐに最後尾を狙いました。
この付近の架線柱も撤去中の写真を見せて貰いました。
この付近で旭町1号踏切部以外は架線も架線柱はもう残っていないようです。

2009年8月30日撮影
旭町1号踏切の跨線橋からのアングル

2009年7月12日撮影
この区間の架線・架線柱はもうありません・・・とのこと。非電化じゃん。

2009年10月31日撮影
旭町1号踏切の架線設備の撤去は、夜間遅くに片側交互通行の制限をしての作業と考えられます。
朝になったら踏切がなくなっているかもしれません。
最終的にレールを撤去する工事が1番難航すると思われます。
さて、次に私が大牟田遠征するころ、全線で架線・架線柱が撤去されていてもおかしくないでしょうね。
撤去して初めてその後悔に気づく・・・だろうか。
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現地から報告あり~架線・架線柱の撤去あり 前編
先日のラストランイベント終了後から始まると言われていた、三井化学専用鉄道の線路・設備撤去工事が始まったと現地在住の方から連絡がありました。その模様を写真ではお伝えできませんが、2009年に撮影した鉄道写真で撤去区間の説明をしましょう。撤去風景を見せるよりも面白いと思いますから。いつか大牟田に行けたら、撤去の進捗状況は報告します。
◆現在はその様な報告をしてくれる方がいて最新情報に困りません。私が大牟田を離れたあたりからTwitterで報告してくれる人が出てきましたね。今回の撤去模様はTwitterではありませんが。

2009年8月30日
東泉町1号踏切から、架線が撤去され、架線柱を引っこ抜かれたそうだ

2009年9月24日
架線の撤去は、高所作業台付きの軌陸車で行われたそうだ

2009年9月24日
しかし、架線柱はそんなに簡単に引っこ抜けるものだろうか?根入れ深さによって撤去のし易さがあるのかもしれない。

2021年9月18日
ここから旭町1号踏切側の区間の架線撤去と架線柱の引き抜きはすんなり工事が進んだようだ

2009年10月24日
東泉町1号踏切から旭町1号踏切の区間は、当初結構攻めたよなあ。
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大牟田専用貨物4175レ・4172レを撮り始めた頃
2009年7月~8月撮影
大牟田専用貨物(通称:大牟田専貨)は列車番号が2011年3月のダイヤ改正までは4175レ(のちの1151レ)、4172レ(のちの1152レ)であった。撮影を始めた頃は列車番号も全然知らなかったはずだ。だって、まだ1人で撮っていたので頼る人も居なかったので、大牟田駅を発着する貨物と認識するくらいだったかもしれない。のちに何かのきっかけで列車番号を知ることになるのだが。
私が初めて大牟田専貨を撮影したときは、前面で無くサイドビューだった。通過時刻をよく知らなかったのかもしれない。

2009年7月11日 吉野~銀水
背景の廃墟ビルは後に解体されたが、黄タキに黄色い建物はなんだがミスマッチ?

2009年7月12日 4175レを大牟田市街の沿線で撮影。なぜこんな場所で撮ったのか記憶に無い。きっとロケハン不足だったのでしょう(笑)。まだ5線路並びのあの場所も知らなかったのかな?
◆いつの間にか、大牟田市内で撮影するのを諦めて?、田園が広がる渡瀬~南瀬高に繰り出しました。
大牟田市内ではまともに撮れない?だから広い場所にやって来たの?という安直な考えだったのか?
それにしてもわざわざここまでやって来たと言うことは、通過時刻をある程度は絞り込めていたのかな?
まだ貨物時刻表の存在も知らなかった頃でしたからね。

2009年7月19日 渡瀬~南瀬高 4172レ

やや編成後方狙いも始めていましたね

2009年8月8日 南瀬高~渡瀬
当時はまだバンバン走っていたリレーつばめ号で撮影練習~このあと下ってくる4175レを狙います。
この時、4175レは瀬高駅でリレーつばめを回避していることを知りませんでした。

思い切り失敗しています。そもそもなぜ東側(下り側)から撮らない?当時は東側を知らなかったのかな?そんなはずは(笑汗)

こちらの後方狙いはアウトですね~何しているんだ~?私は

この日は2度目の南瀬高~渡瀬です。4172レの撮影なら西側(上り側)でバッチリです。

黄タキサイドビュー撮影も始まりましたか

翌日、2009年8月9日 4175レのリベンジで同じ場所に行きましたが、やっぱり西側からの撮影に拘るのね?
まあ曇っているので撮影は一応OKということで、リベンジ果たせたのかな?
よく分かりませんが、4175レをこの位置の東側(下り側)から撮るのは、記録からみて2011年2月以降となっています。
◆なお、翌週の2009年8月16日には、下りの定番 瀬高~南瀬高での撮影を始めていました。上りの定番は渡瀬~南瀬高が多かったです。どうやって撮影場所を見つけたのか?それともこの後にドライブロケハンでもしたのかな?
プレイバック模様はまたいつかお届けします。
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変な場所にいる
2010年4月11日 7:07 三井化学専用鉄道 宮浦操車場
45t電車って動いていない時間帯は、宮浦駅事務所前の定位置にて停留置していますが、希に違う場所にいます。理由は分かりませんが、気になりますね。

左から2番目の留置線にいます。パンタグラフを上げて準備OKでしょうか?

左から1・2・3番線路は、全線に架線がありません。なので中程で架線が無くなります。

この写真のまっすぐ進んだ先やそのお隣が停留の定位置ですからね。保線作業でも行ったのでしょうか?
◆当時、この件に触れた記事がありました。
2010年4月11日 朝7時台の宮浦操車場にて
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定点観測~変わりゆく宮浦操車場、そして撤去が間近に迫る景色2010年
定点観測~変わりゆく宮浦操車場、そして撤去が間近に迫る景色シリーズ再開です。2010年
◆データを昔から見返してゆくと新たな発見や別記事の構想とか思いついたり、まるで昔の懐かしいアルバムを見ている様です。

1月9日 朝の7:06 大牟田の朝はまだ遅い・・・はずなんだが、こんなに暗い設定にした覚えは無いのだが。ISO800,SS1/15なので割と明るく撮れるはずなのだが、やっぱり本当に夜明け前だったのか?曇り空が影響したのでしょうか。それにしても幻想的な風景だね。年に何回かこんな暗い朝を撮った事がありました。この頃は早朝運転があったので、朝7:00前に宮浦に来ることが当たり前でした。

2月7日 写真に海コンが写っているのが分かります。ほんの2ヶ月差で、黄タキと海コンのコラボが叶いませんでした。2008年以前は当たり前の光景だったそうです。更にその時は「銀タキ+黄タキ+海コン」という今から考えたら珍妙な編成でした。

3月14日 海コンの積載が増えました

4月25日 海コンの種類というか色がいろいろ(笑)になった

5月5日 年次ウヤに入る直前だった
海コンの運用は一足先に中断し、空コキが留置されていた

6月26日 年次ウヤが明けてまだ数日だったでしょうか

7月18日 夏らしい日差しになり、輸送量も安定してきました

8月15日 お盆休みも帰らず親不孝者でしたが、撮影を毎日欠かさず続いていると様々なものが分かります。例えばタンクコンテナの周期とか。

9月19日 夏が終わり涼しくなりました

10月16日 黄タンコの留置両数が増えてきました

11月13日 輸送は安定していました

12月19日 8:08 年の瀬が迫ってきましたが、特に変化も無く。黄タンコはデビュー1年。
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タキの魅力を分かっていなかったあの頃
2009年12月上旬、三井化学専用鉄道から黄タキが消え引退した。12月半ばには形式消滅とか。
同年12月下旬、コキ200積載の黄タンコがデビューした。

私がブログをスタートした2009年は黄タキ最後の年で、奇しくも、その瞬間を見る貴重な年になった。
あの頃は黄タキがいっぱいいた。銀タキは残念ながら見られませんでしたが、私は黄タキで十分でした。

黄タキの検査表記は大半が2010年2月末だったので安心していましたが、まさかその2ヶ月以上手前で引退するとは意外でした。

この年の秋は、全国津々浦々から黄タキの最後の勇姿を見届けに黄タキファンがちょっとだけ殺到(笑)しました。

ブログでも書いたことがありますが、一際目立った黄タキファンは、「ここの黄タキが引退したら二度と(大牟田には)来ないよ」って語っていたのは、今でもとても印象深く記憶に残っています。彼はそれほど黄タキには魅力を感じていたのですね。私にはその魅力の欠片は理解していましたが、ほんの半年ほどしかかじっていないためか、彼の言っていることは全部理解できなかったです。
黄タキが引退しました。その後、その黄タキファンには会っていません。

そして、コキ200積載の黄タンコがデビューしました。これには衝撃をいっぱい受けたのは言うまでもありません。
黄タンコがいっぱい見られた時期が懐かしいです。

しかし、黄タキは数両連結されて運ばれて来ていましたが、タンクコンテナ後はその両数が減って少し寂しくなったのは間違いありません。

それでも私は黄タキよりも撮影期間が長かった黄タンコの魅力にどっぷりはまって行くことになります。
黄タンコは大牟田でデビューする以前から日豊本線や羽越本線で数個が活躍を始めていましたが、こんなに多くの個数と運用数を誇っていたのは大牟田発着だった(実際には旭化成のある南延岡発着が1番多い)ので、私はつくづく恵まれた環境に居たのだなと思いました。もう誰にも止められないほど黄タンコ黄タンコって叫んでいたような日もありましたね。
◆今思えば、北九州貨物ターミナル発着の入換えや南延岡発着についてもっと研究・追跡撮影したかったですね。

なんだかんだ言って最後まで大牟田に特化して、井の中の蛙になりました。特化することは悪いことではありませんし、自分の思うように観察しつづけられたのは今でも自慢ですし、後悔はありません。
そして大牟田を離れる時が来ました。
新天地では、当たり前のようにタキを見られる地域でした。

新天地では10数両のタキ1000等が連なる専用貨物列車に魅力を感じました。それからもう一般のコンテナカモレより、タキカモレに執着するようになりました。

遠征先の福島臨海鉄道でもタキの魅力に囚われました。いいよね~!!
2009年に大牟田の宮浦操車場で出会った黄タキファンの言っていたタキの魅力が、大牟田を離れて新天地に来てよく分かりました。離れて感じることは多々ありますが、新天地での私はタンクコンテナもタキ(貨車)もかなり大好きになっていました。井の中の蛙ではなくなり、特化することも薄れてゆくことになります。
そして2021年現在でもタンクコンテナやタキにとても興味があります。その様子は当ブログではメインで書けませんが、今回の様なスタイルで記事に出来たら良いかなと考えています。コキ200も忘れていませんからね!(笑)。
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宮浦操車場を知らなかった私 その1
2009年3月29日 宮浦操車場(謎のウヤ中)
◆あの頃は、どんな知識を持って宮浦操車場を訪れたのだろうか?そもそも何も予備知識なしだったのか?
単に街の中をサイクリングして見つけたよ~!って記憶はあるのだが、何かのブログやHPを読んで予習した記憶が全くないのだ。
当時、遠方から大牟田を訪れた撮り鉄さんは、不定期更新の大牟田の鉄道4大ブログ・HPを参考に訪れたのではないだろうか?
私もその4大ブログ・HPにはお世話になった(内2つは現在でも拝見します)のですが、いつから接点を持ったのかな?
◇そのうち、の各記事、
ブログ炭鉱電車が走った頃、炭鉄の掲示板にそれぞれコメントする様になってから、私以外の大牟田の鉄道をこよなく愛する方々との接点・交流を持ち始めました。宮浦操車場を発見した後は、情報収集や知識を高めるためにちょっぴり必死だったかもしれません。

ウヤ(当時はウヤという鉄道用語すら知らなかった)だった宮浦操車場の正門は閉じられていてとても静かでしたね。
それにしても線路がたくさんあるな~って思いましたね。
◆この時は、この専用鉄道に銀タキや黄タキが入線するとも知りませんでしたから、もし居たら興味津々になったかも。

貨車がまったく写っていない宮浦操車場ってなかなか珍しいと思います。
コキ200が奥の方に留置しているからたまたまなのでしょうが。
長期ウヤの時期や、2020年5月の貨物輸送廃止後なら同じ光景が見られたでしょう。
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コキ200との出会い(2009-3-29)
本ブログでは、コキ200についてもかなり触れてきましたが、
私が大牟田の三井化学専用鉄道に出会うまでは、貨物コンテナどころか、貨車のコキすらよく分からない有様でした。

2009年3月29日 宮浦石炭公園から見下ろした宮浦操車場には、荷を載せていない状態のコキ200が留置していました。
◆頭の中には鉄道の知識はあっても、コキシリーズまでは知らなかった筈なのに、コキ100~106を知らないまま、マイナーなコキ200を先に知ってしまう辺り、私はこの時「井の中の蛙」に足を踏み入れていたのですね。


市道か私道かよく分からない道からフェンス越しに気になる範囲で撮りました。市道で良かった。
この時は本当に何にも知らない、ずぶの素人で、三井化学の専用貨物線だということすら知らなかったのに、なぜか炭鉱電車以外にはコキ200に惹かれました。この先は滅茶苦茶気になる撮影対象になるとは思いもよらなかったです。

もしコキ200が留置されていなかったら、炭鉱電車だけ(当時は電気機関車と呼んでいた)しか興味を抱かなかったのだろう。
当時、コキ200の用途は海上輸送コンテナの積載用だった。まだ濃硝酸のタンコデビューまで3ヶ月、液化塩素タンコのデビューまで9ヶ月先であったので、普通に宮浦操車場内に銀タキや黄タキがいっぱいいたら、きっとそっちに目が行っていたであろう。2009年3月はちょうどリーマンショックの影響か何かで専用貨物の運転が滞っていたらしく、おそらくそのまま年次長期ウヤに突入したのかもしれない。
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2013年9月7日の大牟田専用貨物1151レ
今からちょうど8年前の2013年9月7日 鹿児島本線 鳥栖駅で撮影した大牟田専用貨物1151レ

この日はEF81-503牽引だった

釜次位には海上輸送コンテナが。
でも前2両のコキ200には2個積載だが、残りはコキ106で中央1個積載だ。
コキ200が確保できないのかな?
この頃は、コキ200積載問題が解決して半年が経ったのに、海コンはコキ106への積載が続いていた。
せっかくのコキ200だけの美しい編成が台無しになっていた。

まだ銀タンコ積載のコキ200が6両のころです。豪快だな~。

続きましては黄タンコ積載のコキ200が2両であります。
この銀・黄で8両ですから、さらに海コン4両の合計12両はなかなかの長編成であります。撮影しがいのあった頃でした。

後方狙いは黄タンコさんで

1151レは鳥栖駅を通過します(他のカモレは停車します)。
◆今からちょうど○年前の今日という記事を書けるほど撮影してきました。撮っていない日付もありますが、それは仕方がありません。私は頻繁に撮影していたけれど、毎日撮影していたわけではありませんから。平日はお仕事でしたし。
別にちょうど何年前の今日というのに縛られずに書くこともあります。その辺は気分でやります。
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今後の方針・予定
炭鉱電車ラストランイベントのレポートも一段落しました。
8月は、この特集でいっぱいいっぱいだったので他のネタについては全然書けませんでした。
というより、毎日更新しなければイベントレポートの鮮度も落ちそうだったのでかなり焦りました。
また7月まで書いていたシリーズネタや、炭鉱電車ラストランイベントの細かな点については
今月から細々と不定期更新で進めたいと思います。
これまでは写真がメインでしたが、今後はYoutube動画のリンク、別ページのリンク
書類(自作の絵を利用)、フォトショップでの画像加工・編集、テキスト挿入写真を使ったりと
今まであまりやらなかった記事を作ってみようと考えています。その分更新に時間を要します。
三井化学専用鉄道はもう過去のものです。それでもこの鉄道線はすごかったんだという事を
私なりに、私らしく、私のしたい濃いコースで楽しめたらいいなと思います。
◆下は2枚とも同じ写真です

写した写真そのままです(サイズは小さくしています)

明るく加工編集してみました。
RAWで撮っていればもっと楽しそうな編集が出来るのかな?
2019年9月1日 宮浦操車場 東泉町2号踏切付近で撮影
ちょうど2年前です。まだ2年前ですよ。時が経つのは早いモンだね。
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